12月4日新潟県議会本会議は、代表質問が行われました。通常より多い傍聴者が見守りました。
質問と答弁の速報を掲載し、随時更新します。
県議会公式の録画公開は12月8日13時過ぎからです。
12月県議会代表質問 期日2025年12月4日(木)10:00~
1 高橋 直揮 自由民主党
2 大渕 健 未来にいがた
3 杉井 旬 リベラル新潟
<Q高橋直揮議員(自民党)、A:花角英世県知事等>
12月県議会代表質問 期日 2025年12月4日(木)13:00~ <Q未来にいがた:大渕健議員、A:花角英世県知事>
【知事回答は追って掲載】
12/2の12月定例会提出議案説明でも「私としてはこの判断を行ったこと及びこの判断の沿って今後知事の職務を続けることに県議会の信任を得られるか、または不信任とされるのか判断を仰ぎたいと考えております」と述べられました。
記者会見で「議会の判断を仰ぎたい」と表現したのは分かりますが、しかしいざ議会で議員を目の前にして「議会の判断を仰ぎたいと考えています」と言うのは何なのか?考えているからどうしてくれというのか?存在をかけると言った意思が感じられません。「忖度してくれ」という事なのでしょうか?後ろめたさがあるのでしょうか?なぜストレートに要請しないのでしょうか?私は要請すること自体が筋違いだと思いますが、いずれにいたしましても知事はこれまでの発言通り、自ら示した判断について意思確認する「信を問う方法」を具体的に示されました。意見の分かれる大きな課題について摩擦や分断を回避し、できる限りの理解や納得を得て合意形成を図ることは大事な事です。そのためには手続きが理解と納得が得られているかが極めて重要です。この手続きに疑問が多いので順次質問いたします。
Q 知事は職を続けることについて、信任、不信任を議会の判断に仰ぎたいとしていますが、制度上議会にあるのは「不信任」の権限のみです。「信任」の規定はありません。知事の職を得るという「信任」の根拠が与えられるのは選挙のみです。憲法92条では地方自治の本旨に基づかなければならないとしていますが、この本旨とは住民自治と団体自治の2つの原理であるとするのが通説であり、そう認識しているかを伺います。
Q 93条では首長を住民が直接選挙で選ぶと規定していることから、首長の正当性の根拠は議会からの信任ではなく、住民からの信任であると知事も認識していると理解して良いのか?
Q 地方自治法は議会による不信任のみ制度上可能としており、信任判断は制度上存在しません。議会が「信任」の発議をすることは可能ですが、それは単に政治的意思表示に過ぎないものである。一方知事が自ら信任、不信任の判断を議会に求める行為は意味が根本的に異なり、主権者である住民の判断を迂回し、地方自治の本旨、特に住民自治に反すると考えますがこのことに対し、根拠条文を示して反論できるのか伺います。またそれができないならば今回の対応が住民自治の観点から不適切であったと認めるという理解でよいのか伺います。
Q 知事が職を続けることについて、「県議会の信任、不信任で判断すること」が知事の能動的求めに応じて実施されるのは、二元代表制を取る地方自治制度の原理や趣旨から見て「違法」とは言えないまでも、著しく不適切であることは明らかであり、制度の趣旨は尊重されるべきものであると考えます。違法でないなら禁止規定がないとか、規制がないとか、地方自治の原理や趣旨は無視してかまわないという考えなのか伺いたい。
Q この手法を採用した知事の考えに一点の曇りも無いと言い切れるのか、批判は無視できるものであると考えているのか?あわせて伺います。
Q 首長が「信を問う」と言った場合に、有権者に直接問うという事であり辞職した後の「出直し選挙」を指すことが私は通説だと理解しておりますが、知事の考えを伺いたい。またこの理解を否定するならば理由を伺います。
Q 知事の記者会見で11/21に「単に賛否と言うより存在をかけるという意味だ」という旨の発言があったことからも、「信を問う」とは自ら辞職した上で「出直し選挙」と理解するのが通説と考えます。「出直し選挙」という正規の方法を取れば、住民という主権者が直接知事の続投の可否を審判できるのにもかかわらず、それを敢えて行わずに、議会に信任・不信任の判断を仰ぐことは、住民が行うべき知事の信任判断を議会に委ねるものであり、民主主義の正当性の源をすり替える行為ではないかと考えます。住民自治に基づくなら「信を問う」相手は議会ではなく住民であると考えます。この点について明確に是か非かで伺います。
Q 知事が職を続けることについて、県議会による信任・不信任の判断を仰ぐ手法を持ち出すことは地方自治制度の趣旨に沿った考えとは異なると思います。「信を問う」と言った場合、通説も慣行も「出直し選挙」です。通説や慣行を踏み外してまで、敢えて県議会による判断を求めた理由は何か伺います。
Q 行政の運営や実務においては他の制度との整合性、運用の安定性、住民の理解可能性などのため「通説」を取ることが最も合理的であり、筋であると思います。このこと自体の知事の理解を伺います。非とするならば今後の行政運営についても同様の考えで臨むというのか伺いたい。
Q 11/21記者会見では「リコールもある」と付け足しているものの、「知事の職務を止められるのは県議会しかない」と発言しています。知事は直接選挙で信任されていることを踏まえれば知事の職務を止められるのは県民である。県民の向かって「私を認めないならリコールしてください」と訴えて信を問うという手法も考えられます。むしろ県議会に問うより筋が通っていると考えますが所見を伺います。
Q 11/21記者会見では「リコールは例外的」とも発言しています。リコールは地方自治法に明文化された住民が行使できる解職手続きであり、「例外的」とする発言は余りにも住民視点を欠いていると言わざるを得ません。リコールを例外としたこと、表現をしたことを不適切とは思わないのでしょうか?所見を伺います。
Q 知事は信任・不信任の判断を議会に仰いでおり、11/21記者会見で「職を止められるのは制度上議会しかない」と発言しています。この表現から地方自治法第178条による「不信任決議の手続き」を定めた条文ですが、この手続きを求めているという解釈で良いのか伺います。
Q 地方自治法178条を適用して議会の判断で知事の職を止められないという状況を実現する為には、つまりずっと続けていくという状況を実現する為には、定足数の規定はあるにせよ、職務を続ける方向性からすれば問題は無いわけでして、4分の1で足りてしまいます。つまり2分の1の出席で2分の1の賛成よりも、普段はほとんど議会は欠席無いわけですからハードルはむしろ下がる。4分の1「続けてほしいという人」を確保すれば通ってしまうわけで、むしろ信任のハードルは低くなることからこれは不可解ではないかと思いますが所見を伺います。
Q 11/21記者会見では「私の信任・不信任を決められるのは今の制度上は県議会しかありません」「ごく例外的にリコールがあります」と「それしかないです」、「不信任は否決すればそれは信任という事になるのでしょうけれども、その権能は議会にあると思っています」と発言しています。私はこの二つの発言を事実誤認ではないかと思います。繰り返し申し上げてきましたが、地方自治法には議会による知事に対する不信任決議のみ規定されています。信任はありません。違うのでしょうか?また不信任は否決されたからと言ってその意味は不信任が否決されたという事実のみで、信任されたという事にはなりません。不信任の理由が二者一択ではないからです。単に保留としたい人もいるでしょう。積極的に信任ではないけども不信任までは判断しないという人もいるでしょうし、そもそも不信任案自体の提出に賛成できないという理由の人もいるでしょうから、様々あるわけでして、そもそも知事は有権者から信任されております。4年間の任期を与えられて、「信任」はされている。発言に対する知事の認識を伺いたい。事実誤認と認めるのであればなぜそのような発言をしたのか伺いたいし、事実誤認でないとするならばその根拠を伺う。
Q 地方自治法には職務の正当性に影響するという意味では議会による知事の不信任決議のみが規定されており、そもそも有権者から知事の職務は選挙を通じて信任されているものですし、4年の任期が与えられています。議会で議案や予算が否決されたからといって知事の職務そのものの信任が問われるものではない。ただ議会と知事が対立して予算や議案が通らない行政運営に支障をきたすそういう状況に陥った場合に、その対立・紛争の打開策として議会には首長に対する不信任が与えられている。対抗策としてその場合知事には解散権が与えられているものと理解しています。議会には不信任の規定があり、信任の規定は無いことを妥当と考えていらっしゃいますか?そうしたことの理由を理解されていらっしゃるのでしょうか?イエスかノーの回答を求めたいと思いますし、それぞれの回答の理由を伺いたいと思います。
Q 知事は9月定例会の決議を踏まえ「信任」「不信任」の判断を議会に仰いだとしております。決議を発議した自民党は知事に求められれば、決議の文言で言えば「知事が県民の意思を確認する方法として県議会を選択した場合は対応する」という姿勢であり、お互いに事の発端は相手側にあるように受け取れます。任意の個別の政治課題を引き合いにして知事が自らの信任・不信任の判断を議会に仰ぎ、それが実施されることにかかる責任の所在は知事と議会のどちらにあると認識しているのか伺います。
Q 「意思確認する」、「信を問う」と言い出したのは誰でもない知事自ら言い出したことです。知事が言い出したことです。「議会が9月に決議したこともあり」などと午前中の答弁でも知事は仰っていましたが、おかしくないですか。自民党の皆さんにも問いたい。地方自治法178条によるものにしろ、通常のものにしろ、決議を出せがそれは議会の責任になります。出発点は明らかに知事なのにであります。「私の信任・不信任を決められるのは今の制度上は県議会しかありません」、「不信任は否決されればそれは信任という事になるでしょうけれども、その権能は議会にあると思っています」もし見解が知事このままならば、私はこのようなおかしな見解の土俵に乗ってしまうこと自体が問題だと思っています。全体がおかしいことの土俵には乗れません。敢えて知事に申し上げたいです。「信任・不信任を決められるのは今の制度上は県議会しかない」などと強弁するよりも、「信を問うは、筋から言えば選挙になるが得策ではない為やめたんだ」と「次善の策として議会に問うことにした。自分で関連する議案を出してそれが否決されたら辞めることにする。自分の判断だ。」これなら知事の裁量で完結します。そうすべきと私は言いたいわけではないのですが、破綻している説明は認められないし、法の趣旨に逸脱する説明を前提としてこの議会で議論していること自体認め難いと思っています。また、後世に残る今回の事の記録を考えても、今のままでは県としてデメリットが大きいと思います。是非考えていただきたいと思います。
Q 知事が職を続けることについて県議会の信任・不信任で判断することが知事の能動的求めに応じて実施されることがこのまま通ればこれが前例になって行きます。もしこれが全国でもそうですし繰り返されれば、住民自治を経ずに首長の正当性を維持する政治運用が可能となり、憲法第92条に規定された地方自治の本旨、特に住民自治原理の形骸化を招くことにつながると危惧します。知事は本件をこのまま前例化しても良いと考えるのでしょうか?また住民の直接選挙によらず首長の正当性を更新できる政治モデルを肯定するのでしょうか?是か非か伺いたいと思います。
Q 県民意識調査では「原発再稼働の条件が現状で整っているか」の問への回答は37%対60%、6対4で否定的な回答が多いものでしたが、知事は再稼働容認と判断されました。「現時点では民意形成が不十分という評価が妥当である」にも係わらず「将来肯定的な人が増えるという可能性」に依拠して結論を出すことは、現状民意より「可能性」を優先した判断だと言えます。しかしこの知事の説明は、柏崎刈羽原発の安全対策、防災対策が県民に十分認知されていない状況で、これら対策に関する認知度が高くなるほど再稼働に肯定的な意見が増える「傾向」があると言っている。つまり「相関関係がある」と言っているだけであります。相関関係だけでは合理性が弱く、説明になっていないと考えます。合理的と言うなら因果関係を示すべきですが、相関は因果ではありません。相関から因果の方向性も決まりません。例えば、理解が深いほど肯定的ではなく逆かもしれない。もともと肯定的な意見の人だから安全対策に関心を持って勉強しているのかもしれないとも言えるという事です。こうしたことの証明も無く、因果応報の検証もなく、政策判断の合理性があるとは言えないと思いませんか?将来の肯定的な人の増加の期待を優先することの合理性・妥当性をどう説明するのか伺います。
Q 理解が深まるれば肯定的な人が増えるという判断は統計学的社会調査として検証可能な因果関係に基づいているのか、肯定的な人が増えると断定的に根拠データや再現性を県が示せないのなら、知事の判断は現状の民意ではなく「将来予測」への依拠だったと言わざるを得ず、合理性が弱いと考えます。アンケート結果はそもそも「判断時期は整っていない」という民意が6割であり、これは理解度の相関より重い事実です。相関だけを恣意的に取り出し結論を導く事は適切ではないと思います。仮に因果関係があるとしても、今判断する根拠にはなりません。理解が深まるまで待つべきという結論が妥当ではないでしょうか。「未来は肯定的な人が増える」ではなく「今は不十分である」が調査が示した「現実」です。この区別が曖昧になるとあらゆる政策判断が「希望と期待」で正当化できてしまい、民主的意思決定の土台が壊れてしまいます。今後の行政運営においてこのような「解釈」を都合よく持ち出すことが常態化されてしまうと問題と考えますが所見を伺います。
Q 避難の実効性についてどの時点で「整った」と判断するのかという事については、例えば私の令和7年2月議会代表質問で「原発事故時の避難の課題項目」として国に求めている避難道路の整備では「予算が約束された時点」、「工事が完成した時点」、「完成した道路を用いて訓練を行い確認をした時点」など様々考えられると思いますが、「どのような時点で整備されたと判断するのか」と質問した際、知事は「避難路の整備が確実に進められていき、県民の安心感につながることが重要と考えています」という答弁でした。しかし11月に公表された県民意識調査では「防災への取り組みはどの程度実施されていると思いますか」の問に対して「十分実施されている」または「概ね実施できている」と回答した割合は36%でした。また「安全に避難できる避難路のさらなる整備が必要だ」は「そう思う」「どちらかと言えばそう思う」人は90%でした。この度の知事が再稼働を了解する判断はこの答弁を全く無視しているものと言わざるを得ません。答弁との整合性についてどう説明するのか所見を伺います。
Q 原子力災害時に円滑に避難するための避難路の整備を進めて行くことが記者会見で説明する資料に記載されており、会見の中で知事は「10年くらいかかるものもある」と説明していました。現状では避難路は整備完了していないことから問題があると考えるのは当たり前である。県民意識調査からも明らかなように、不安視する人も多いと承知しています。すぐに整備が可能となるように予算措置を国に求める対応が必要ではないでしょうか。実際にどのような要望や交渉となっているのでしょうか。国の予算を特段に付けてもらい、臨時の職員庁舎を作って国から職員も出してもらい、業者も確保して工事が優先的に進むような事業費の設定を行うなど、既存の枠組みで考えるものではないと私は思います。特例的な位置づけで工事を突貫的に行うよう条件を付けて要望したら良いではないですか。オリンピックでも万博でも期限があれば取組みます。原発は国策であり急ぎたいというのであれば条件を付けて進めることが筋ではないでしょうか。短縮して10年というのは何なんでしょうか?そうではない通常の見積もりと言うなら一刻も早く3年で、せめて半分の5年でと交渉すべきではないでしょうか。地元地域への誠意でありそれがあるべき姿ではないでしょうかと思います。悠長すぎると思いますが所見を伺います。また10年という期間の妥当性をどう説明するのか伺います。
Q 柏崎刈羽原子力発電所の再稼働に対する国の理解要請に対し、知事は「国の対応を確認し確約をいただいた上で了解する」旨の判断をした。この判断に公聴会や市町村長との懇談会で出された意見、また県民意識調査の結果は生かされているのか疑問を感じる。県民意識調査では「東京電力が柏崎刈羽原発を運転することは心配だ」との問いに、回答した県民の実に69%が「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と答え「再稼働の場健は現状で整っている」との問いには60%が「そうは思わない」「どちらかといえばそうは思わない」と答えている。この結果を踏まえれば県民の意思は再稼働に反対と受け止めるべきと考えるが、知事の所見を伺います。
A まず初めに、柏崎刈羽原子力発電所の再稼働問題に関する県民意識調査の結果についてでありますが、
議員ご指摘の通り、「再稼働の場健は現状で整っているかぎ」との問いには60%が「そうは思わない」「どちらかといえばそうは思わない」との回答でしたが、一方で「どのような対策を行ったとしても再稼働すべきでない」との問いに対しては、50%の人が「そうは思わない」「どちらかと言えばそうは思わない」と回答しており、現時点では、県民の中で賛否は分かれているものと思われます。

